チェコ少年合唱団“ボニ・プエリ” 天使の降りるクリスマス
12月10日
(日)  兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール


 初めて、舞台に接するチェコ少年合唱団“ボニ・プエリ”ですが、チェコ語の耳慣れない曲もありますので、プログラム順に曲の感想を述べるのではなく、ステージ全体を通して感じたことを書いてみました。

   
日本を意識したプログラム構成

 プログラムは、第一部 ヨーロッパのクラシック音楽、第二部 チェコ民謡と日本の歌、 第三部 世界のクリスマスソングという構成でしたが、どのステージも約30分のステージで、2回の休憩を挟み、鑑賞しやすい時間でした。 
 しかも、どのステージも、日本でもよく歌われ親しみやすい曲とチェコの民族性を表す曲とが適当にちりばめられており、日本を意識したプログラム構成をしていることを感じました。これは、とても大事なことで、プログラムに聴き慣れない曲ばかりが並んでいると、それだけで鑑賞意欲を失う人も出てきそうです。
 日本人にとって、「クラシックファン」と呼ばれる人にとっては、スメタナ、ヤナーチェク、ドヴォルザークといったいわゆる国民楽派に分類されるような作曲家が著名ですが、一般的な音楽愛好者には、「おお、牧場はみどり」や「ビア樽ポルカ」といった「みんなのうた」で採り上げられた曲の方が親しみを感じる人が多いでしょう。「ビア樽ポルカ」に至っては、題名は知らなくても、どこかで耳にしたことがある曲だと思う人が多いでしょう。この日の観客も1960年代の「みんなのうた」を聴いたり歌ったりして育った高齢者の比率が高く、指揮者のパヴェル・ホラーク先生の言葉に応えて、「おお、牧場はみどり」を一緒に歌う人がかなりいました。ただ、プログラム最後の「きよしこの夜」には、会場のみんなで歌うにしても、日本語に讃美歌だけでも一部分二通りの歌詞(みははのむねに または まぶねの中に)があり、その混在もちょっと気になりました。
 また、変声前と変声後の2人の団員による日本語のMCは、最初の「こんにちは。」という挨拶以外は、たとえ台本を読む拙いものであっても、伝えようという一生懸命さが感じられ、第1部では、スメタナ作曲の「モルダウ」をあえて岩河三郎編曲の日本語で歌い、第2部では「いつも何度でも」「君をのせて」「となりのトトロ」と、ジブリ・メドレー。第3部では、クリスマスソングとは思えない日本の合唱曲の「ビリーブ」が、二人のボーイ・ソプラノソロで最初の部分を歌わせるなど、日本の観客を意識しているだけでなく、観客の心を動かすことができる指導者たちによって指導されていることを強く感じました。

   
音楽と舞踊は共に発展した

 ボニ・プエリは、1982年に誕生してからまだ40年ぐらいの比較的歴史の浅い合唱団です。当然のことながら、キリスト教会の聖歌隊から発展した少年合唱団と、最初から特定の宗教と関係なく少年合唱団としてスタートした合唱団では、理念も違えば、発声も違うかもしれません。
 この日のステージは、第一部は黄色いローブという名の聖衣、第二部はチェコの民族衣装、第三部は、白いカッターシャツにライトブルーのネクタイに黒ズボンとステージごとに衣装が変わり、それを見ているだけでも楽しめましたが、特に、第二部は振り付けも大胆で、舞台上で大きく動き回り、チェコとモラビアの民謡と踊りが楽しめるステージでした。ときには、指揮者なしでロバート・フックス先生のピアノ伴奏だけで団員がパフォーマンスする曲もあり、このようなところに見えない指導力を感じると共に、民謡と踊りのつながりということについても考えさせられました。
 ウィーン少年合唱団も、オーストリア西部のチロル地方の民謡を演奏するときは、団員の何人かがレーダーホーゼンに着替えて踊る姿も見ておりますが、そこには、何となくのどかさを感じました。ところが、ボニ・プエリのの民謡と踊りは、曲との関係もあってもっとダイナミックです。古代より、踊りと音楽は互いに結びついて発展してきました。人々は、神に祈ったり、戦に勝ったりする時に歌い踊ってきました。ヴェルディの歌劇『アイーダ」の第2幕は、その典型的な例です。そして、国や民族が違うと、踊りや音楽に違いがあることをこの日、強く感じました。
 同時に、生まれたときから動きのある音楽を視聴して育っている現代の子どもは、直立不動でひたすら歌うだけの合唱、練習ではあって当然ですが、発表の場で楽譜を見ながら視線を落として歌う合唱に魅力を感じるだろうかということも感じました。また、会場の観客の全体的な高齢化を見て、それならば、それを覆すようなボニ・プエリの演奏を、子どもが見ることのできるような時間帯にテレビ放映してほしいと思ったものです。

   
指揮者もパフォーマー

 指揮者のパヴェル・ホラーク先生には、少年合唱の指揮者としてのあるべき姿を学んだような気がしました。「指揮の微妙な手や指の動きを見て歌いなさい。」と指導するのは、練習のときならよいのですが、本番の舞台でそれが見えてしまうと、観客にとっては、かえって興ざめになってしまします。真面目であることは人間にとって美点なのですが、そこに「くそ」が着くと、それは、かえって欠点につながってしまいます。
 たとえ、パヴェル・ホラーク先生はステージに登場しなくても、団員は舞台狭しと歌い踊っています。もしも、こんなステージのど真ん中に指揮者がいたら、かえって観客にとっては視覚的に邪魔になるかもしれません。また、指揮者の位置はいつも舞台のど真ん中ではなく、曲によって適当な位置に動いていても全体を見渡しており、曲によっては団員と共に演じるというよりも、おなかの出た体型を活かして喜劇役者としてその役を演じる。こんなことのできる少年合唱の指揮者は見たことがありません。そんなことで指導者としての権威は失墜しません。それは、音楽そのものとはまた違った感動につながりました。
 こういうものを見てしまうと、カッチーニ作曲ではなく、ヴァヴィロフ作曲の「カッチーニのアヴェ・マリア」の登場が、照明を落とした会場の後ろから、変声前と変声後の団員がそれぞれ一列になって、LEDのキャンドルを持って歌いながら入場することは、この合唱団にとっては、むしろ当たり前のことに思えてしまいます。鈴を鳴らしたり、LEDのキャンドルをつけたり消したり、サンタクロースの帽子をかぶったりするような演出も、極めて自然に感じられました。
 ボニ・プエリを紹介する言葉に、「洗練されたショーアップされたステージ」というものがありますが、これは一歩間違うと、喜劇につながるもので、「洗練された表現」ができるということが、この少年合唱団を偉大ならしめていると感じます。日本で、これに近いことができる指揮者は、呉少年合唱団の木村茂緒先生ぐらいかもしれません。木村先生は、昨年の定期演奏会で、その日突然会場に現れたことになっている呉市のゆるキャラ「呉氏」と手をつないでダンスを踊ったりして、観客を驚かせました。日本の少年合唱指揮者にもこのようなエンターテインメントのセンスが必要ではないかと改めて感じました。

     
 合唱としてどうだったのか
 

 ところで、このような視点だけで書くと、ボニ・プエリの演奏は、合唱としてどうだったのかということが欠落するかもしれませんが、31人の混声合唱としては、変声後のパートの比重の高い歌声でしたが、声質が柔らかくてソフトでやさしく、やや細めの変声前の声を消すことはありませんでした。また、変声前のパートやソロを活かした編曲も見られました。また、ところどころで見られるソロは、会場が2000席あるためもあって、やや声が小さく感じられるところもありましたが、これは会場の広さのせいではないかと思います。観客は、音楽的にもステージ全体としても大いに楽しめたと思います。